内山在住 男性(大正15年生まれ)
内山紙の歴史を語るとき、江戸時代の始祖、萩原喜右衛門さんを抜きにして語ることは出来ません。豊富な湧水と燃料豊かな山々、また天然の雪など素晴らしい環境に恵まれた故郷、内山。喜右衛門さんはこれに感動され、大きな夢と希望を持ち、寛文年間伊勢神宮参詣の帰路何処かで勉強され、家で障子紙の製造を始められました。これが内山における製紙の始めでした。
その後多くの先輩たちにより改良が重ねられ、内山といえば障子紙、紙といえば内山と、全国津々浦々までその名を広げることが出来たのです。
まず最初は紙漉の妙薬、ニレ(のりうつぎ)を採取する楡切(にれきり)です。十月に入り営林署より払い下げてもらい、隣近所三~四人で暗い中家を出ます。場所は北の入・本沢・赤だれの三箇所で、赤だれ方面が多かったようです。
七時頃に現場到着。一面背丈程の笹薮で所々にブナ、トチの大木があり、静寂に包まれ聞こえるのは小鳥の声だけ。はぐれないように隣の人とオーイオーイと声を掛けあい、ニレをみつけるのです。笹薮に白い花が見えるのがニレで、四箇所くらい見つけ切ります。一株三本位ありますので、切ったニレを木場まで運び出し荷造りします。道が狭いので立て背負いです。お昼を食べて帰路に着きます。ベテランは二十〆、私たちは十四、五〆です。
帰りは坂道で、少し行くと足や背中が痛く、古老の言う一寸ずりです。家につくのは暗くなってからです。次の日は足の休養です。また古老たちは秋の楽しみで三回位山へ行くそうです。なお、秋は山の天候の激変や短日のため十月二十日前後には終ることにしています。
その後徐々に草ニレの「トロロアオイ」を使用するようになりました。
十二月、雪降る前に楮切りをし、更に三尺位に切り、大釜で蒸し、皮剥ぎをします。近所隣りで結(ゆい)をし、朝三時頃から始めて、三日で終ります。
この黒皮を家の廻りにつるし乾燥させます。
乾燥した皮は水に浸し日に当てたり凍らせたりして表皮を削り取りやすくします。学校から帰ると三連をハゼに吊し、水を切り凍らないように菰に包み、家に運びます。夕飯後皮かきをします。これを雪ざらしにします。
七日~十日位さらすと白皮になり、白皮に更に薬品を加え、大釜で煮沸し水洗いします。水洗いは龍興寺清水で、寺の小屋と中の小屋、下の小屋と三ヶ所があり、主に婦女子の仕事です。何もない時代に色々の情報収集場所として楽しそうです。
水洗いした皮はその晩晒粉で更に白くして、昨日の皮を家へ持ち帰り、夜に叩解します。叩解工場があり、仲間の人はその工場で、それ以外の人は家で叩解します。
夕飯後は隣近所の叩解音で賑やかです。昔の一枚盤の時は座って石の上で叩解したそうです。我が家にも二ヶの石が残っております。
また当時、農林高校でも紙漉き工場があり、練習した思い出があります。叩解は父と母の仕事で両方にいて立って叩解します。
私は復員後、父に代わって二枚判で漉き始めました。最初は隣近所の家をたずね色々話を聞いたり見たり何回も勉強しました。昭和八年頃は二軒ばかり板乾しの家がありました。家にも板乾しの板がたくさんありました。外は皆蒸気乾燥です。
乾燥は祖母の仕事で、夜遅くまでランプをつけて仕事をしておりました。
紙の選別および切断等は祖父の仕事になります。
荷造りは一丸(ひとまる)をひとつの単位とし、一丸は1200枚です。目方は一〆(ひとしめ)二百匁以上~二百五十匁以下におさまっていなければなりません。値段は三千円台になったと思います。漉き手は十歳二十歳でも、高く売れる質の良い障子紙の生産に力を入れてまいりました。
昭和二十七年頃、簀桁を四枚判にし、動力を入れて漉くようにして、仕事も楽になり能率も上がりました。紙漉きが盛んになるにつれ、紙問屋も発達しました。野田重を始め和泉屋、依貞(よさだ/当て字?)さん等があり、番頭さんが漉屋を訪れて値をつけて買取ります。良い値で買ってもらう為に漉人は応待に気をつかったようです。
時代が進むにしたがい建築様式も変わり、また洋紙の進出により障子紙生産は減少しました。またえのき茸栽培が各地で盛んになり、内山でもえのきに切り換える人が多く、四十年頃ついに私ほか三名となり役員も二名いたところが一名となりました。私も最後の役員理事として後々の事務処理に当たり、昭和四十四年遂に三百有余年の伝統をほこる内山障子紙の歴史に終止符を打ったのです。
その後記念碑、体験の家等の建立が成り、復活するかに見えましたが長続きせず、幸い後を引継いだ方が障子紙のほか多面的な用途を研究され、紙を材料にした手工芸品等数多く研究され、学校関係や観光客等多くの人が来訪され内山も活況に満ちております。
思い出をたどりますと、障子戸は音も良く通します。毎朝五時に飯山の製紙工場のサイレンが鳴り五時半に汽車が動き出す、その音が良く聞こえます。冬場に良く聞こえる時は大体晴れでゆっくり朝休み、聞こえが悪い時は早く起きると雪降りで、雪踏みや雪ざらし、皮を集めるのが私の仕事です。家族全員で仕事ができること、これが家庭円満につながっていたのではないでしょうか。
また昭和二十一年頃のこと、四月頃紙漉きが片付いたのでちょっと裏山へ。ところどころ桜が満開で、三ヶ所くらいから長持唄(ながもちうた・婚礼のときに唄われる)が聞え、のどかな農村の原風景そのものです。
婚礼でいただいた御馳走は、「ツトッコ」というもので持ち帰ります。少し長めの藁を多めに両方を結んで、穂の方を二本縄口(なわくち)にして結んだものです。
新聞紙を敷き、ツトッコに御馳走を入れよく閉じて結びます。新聞紙はぬれると弱く、破れて道々御馳走をふりまき、家に着いた時は何もありません。「キツネ」に食われたと子供もがっかりです。紙漉き農家は新聞紙のかわりに、くし紙(=ふし紙・黒皮のはいった粗い紙)二枚にしました。ぬれても破れないので子供に無事とどきました。キツネ出なくて良かったね、と喜んだものです。
障子紙の強さを実証する出来事です。強く美しい内山紙は、このような用途にも多く使用されておりました。
(平成25年4月 本人記)